2009年11月 のアーカイブ

クリスマス

2009年11月30日 月曜日

もう既に、クリスマスの事は記載したけれども、やはりアメリカの一大イベントであるクリスマスに関しては、何度でもお話したい事やエピソードが浮かんで来る。

今年も明日から12月。アメリカの子供達にとっては胸躍る瞬間が近付いて来る訳だ。何と言っても、サンタさんを信じている子供達の多い事。本当に微笑ましくなってくる。皆さんは、「34丁目の奇跡」と言う映画をご覧になった事がありますか?

古くはジュディー・ガーランドが演じ、その後も何度もリメイクされています。あれをご覧になったら、アメリカのクリスマスが何であるか、よ?くお分かりになる事でしょう。34丁目と言うのは、ニューヨーク34丁目とブロードウエイの角にあるメイシーズと言うデパートの事なんですよ。

25日の朝、子供達はツリーの下に置かれたサンタからの贈り物を開けるのです。朝まで待ちきれない子供は、夜中にこっそりリヴィングを覗き見て、両親に叱られたりするのです。夜中にプレゼントを持って来てくれるサンタさんに、ねぎらいの気持ちをこめて、ホームメイドのクッキーとミルクを置いておくのも忘れないんですよね。

ですから、サンタさんはクッキーを一口かじり、ミルクをちょっと飲んで、今年も君の所へやって来たよとマークを残して置くのです。

プレゼントに一騒ぎした後は、家族揃って教会へと出かけて行きます。そして、家族揃ってクリスマス・ディナーに舌鼓を打つのです。勿論、デザートはありますが、日本のようなクリスマス・デコレーションケーキは、見た事がありません。(笑)きっと、ヴァレンタインデーと同じで、商魂逞しい日本のケーキ屋さんの陰謀に違いないのです。

クリスマスには、おじいちゃん、おばあちゃん、その他の親族と会えるのも楽しみです。核家族で暮らしている彼らにとっては、感謝祭かクリスマスが、親族と顔を合わせる貴重な日となる訳です。たまに親類で旅行に出かけて「ホーム・アローン」の様なアクシデントが起こる事もあるのでしょうか?

みんなの願いは、ホワイト・クリスマス。降りしきる雪の中をそりに乗ったサンタさんが、駆け巡るのです。目を覚ませば一面の銀世界のクリスマスの朝!でも、雪の降らない暖かい地方も有るのですから・・・・だから夢見るのかもしれませんね。

今年のクリスマスは、どうなのかな?

ハワイ

2009年11月27日 金曜日

日本も寒くなってきたので、何だか暖かいところへ避寒したくなってきました。(笑)ニューヨークで冬場は毎日マイナスの生活には慣れているはずですが、日本は湿気がある所為か、変に寒いのです(?)

もう、20年以上訪れていないので、すっかり変わってしまったとは思いますが、ハワイに行って見たいですね。以前は、友人がアラモアナのコンドミニアムに住んでいましたので、毎年訪ねてはのんびりしたものでした。

日本から7時間ほどで、ホノルルは勿論、今はハワイ島、マウイ島にも便利なフライトがありますね。でも、ニューヨークから日本へ里帰りの途中に寄るには、ちょっと中途半端で、早く帰りたい気持ちの方が強く、84年以来一度も訪れていないのです。

当時、若かった私と友人は、到着後は、ちょっと奮発してロイヤル・ハワイアンでウエルカム・ランチを楽しみ、それからワイキキの混雑を逃れて、アラモアナで日光浴(友人は既に真っ黒で、これ以上焼きたくないと部屋で待ってましたが・・・)夕方にショッピングセンターへ出かけ、それからワイキキのメインストリートを散策して夕食と、飽きずに繰り返したものでした。

毎日のランチは、サイミン(ハワイ版ラーメン)とロコモコがお気に入りでした。面白かったのは、その当時はレストランに行くと、ロコ(地元住民)、日本人観光客、メインランドや世界からの観光客用に、違ったメニューが出されたものです。入り口で、「ロコ」と言うと、ちょっと安めのお値段のメニューが出されます。オーダーは勿論英語ですが、終わった後、「パオ」と言うのです。これは英語で言う「FINISH]の意味なのです。これが、ロコとしては忘れてはならない言葉なのだと友人に教えられました。二人とも真っ黒でストレート・ロングヘアーですから、何処から見ても違和感無くロコでしたね。(笑)今は、もうそんな差別は無いでしょうが・・・・

ハワイの思い出と言うと、直ぐにパオとマハロと言う言葉が浮かんできます。マハロと言うのは「THANK YOU」と言う意味ですが、通りに置いてある屑篭に「マハロ」と書いてあるので、ある日本人の観光客が、ハワイでは屑篭の事をマハロと言うんだよと誰かに話した事で、これがジョークになっているのです。

それから、クリスマス・シーズンに滞在した時は、ポインセチアの鉢に、氷を乗せて置くんですよね。暑いので枯れないようにお水ではなく氷を一杯乗せて置くのには、ビックリしました。

現在、ニューヨークの友人が、リタイアメント後、ノースショアでペンションを始めました。遊びにいらっしゃいと言われているので、何時か訪れて、トローリングに挑戦するのが夢です。

ディズニー・ランド?

2009年11月26日 木曜日

残念ながら未だ日本のディズニーランドには行った事がない。ニューヨークに居た時は、毎年年末に、寒いニューヨークを逃れ、オーランドのディズニー・ワールドでの年越しをしたものです。特に、毎年風邪を引いてしまう主人は、オーランドへ行くと治ってしまうので、楽しみにしていました。

私が初めてディズニーランドに行ったのは、1977年。サンフランシスコに滞在していた時です。以前、我家にホームステイしていた子が、大学を卒業しバンク・オブ・アメリカに就職して、ロスアンジェルスに戻って来てるので、是非両親に紹介したいし、我家にご招待したいと言うので、出かけて行きました。

門から玄関まで両側にレモンの並木があり、朝は落ちた実を拾って、レモネードを造るのです。ご両親が、何処に行きたいと聞かれたので、「ディズニーランド」と答えたんですが、丁度その日は週日で、お父さんと息子は仕事でダウンタウンに出かけるし、お母さんもパートで高校のスペイン語の先生をしてると言う事で、とりあえず、車の運転が出来ない私の為に、ディズニーランドまで送ってくれる事になりました。

5時に正面玄関でね。と、一人残された私。当時は入場料の他に、アトラクションのティケットを買うようになっていました。10枚綴りだとか20枚だとか、それにランクがあって、3段階くらいの値段に分かれていたような記憶があります。今のような1日券等になったのは、何時からでしょうかしら?

兎に角、入場料と10枚くらいの券を買い中へ・・・勿論、見るもの全てが珍しく、素敵でしたよ。でもね、ああ言う場所には一人で行くものではありませんね。(涙)何を見ても、特に何に乗っても、あちこちで「キャー」とかワイワイやってる訳ですよ。こちらは一人で、「キャー」と言う訳にも行かず、誰とも話さず(ランチのオーダー以外はね)、とても孤独を噛み締めた1日でした。(笑)

あれから、ロスのディズニーには3回ほど、オーランドには何度も行きました。何時も進化を遂げているディズニー、又行って見たいですね。

皆さんも、この年末行って見ませんか?2月ってのも穴場です。ロスもオーランドも暖かいんですよ。

霧?靄?

2009年11月25日 水曜日

今朝、カーテンを開けてビックリ!一面の靄で真っ白、何も見えない。

幻想的な光景に、頭の中に二つの情景が浮かんで来た。

最初は、サンフランシスコ。写真などでも真っ白な霧の中に頭をちょっと覗かせたゴールデン・ゲイト・ブリッジをご覧になった方は多いでしょう。私は最初、デイリー・シティーと言う、霧の名所(?)に住んでいたんです。歌とダンスのレッスンからデイリー・シティーの駅に辿り着くと、6時くらいからモクモクと霧が湧き出てきます。バスに乗り込むと周りは真っ白で何も見えず、本当に毎日怖い思いをしました。ドライバーは慣れているとは言え、事故がなかったのが奇跡に近いと思えるほどでしたよ。

次に移り住んだニューヨークでは、40丁目の2番街、国連に近いコンドミニアムに住んでいましたが、ベランダから右にクライスラービル、左にエンパイアビルが見えると言う、本当に贅沢な光景を毎日目にしていたものです。

時々、霧でエンパイアもクライスラーも姿を消すんですよね。まるでマジックみたいで面白かったですよ。

9時には、靄も消えてしまい何だかガッカリ!つかの間の異次元に感謝ですね。このアパートの横には川が流れていて、12階から見る景色は、ニューヨーク最後の住まいとなったルーズベルト島の17階の部屋を思い出させてくれます。

四季のある日本へ帰国して、今度はどんな新しい発見があるのかとても楽しみなこの頃なのです。

七面鳥

2009年11月24日 火曜日

日本では昨日、勤労感謝の日が終わったばかりですが、アメリカの11月第4木曜日の感謝祭と混同されているようなので、ちょっとお話致しましょう。

アメリカの勤労感謝の日は、9月第1月曜日のレイバーデイなのです。感謝祭は、清教徒たちがアメリカへ入植して初めて出来た作物を神に感謝して捧げた日とされています。又、最初の1年は作物にも恵まれず、インディアン達が七面鳥や他の食べ物を与えてくれたとされ、学校などでは発表会の劇として、毎年上演されます。

え、でもそのインディアン達を追っ払ったんでしょう?と言う疑問はあちらに置いといて下さい。(汗)

今でも、野生の七面鳥はたくさんいますよ。私が両親みたいに慕って、週末を良く過ごした、ペンシルバニア州のマウントポコノの家の庭には、七面鳥、鹿、リスなど色んな動物が遊びに来ていました。初めて七面鳥を見た時は、あまりの大きさにビックリしてしまいました。

七面鳥は、スーパーで冷凍したものしか見た事はありませんでしたから・・・・感謝祭と言えば七面鳥です。

詰め物をした七面鳥を、大きなオーブンで焼くのはお母さん、皆に切り分けるのは一家の長なのです。クランベリー・ソースを添えて、定番はマッシュ・ポテトにグレイビー、パンプキンパイ、これが感謝祭のおご馳走なのです。

日本のお盆のように、皆感謝祭を家族で祝う為に帰省します。空港やフリーウエイはこの時期大混雑なんです。特に寒い地方は、雪に降られてフライト欠航と言う事も、毎年起こっています。でも、普段自分の家族単位でしか生活しないアメリカ人にとっては、この日は自分の生まれ育った家族と共に祝う、大事な日なんですね。

今頃お母さん達は、スーパーでどのサイズの七面鳥を焼こうかしらと、お買い物に大忙しの事でしょう。

オブザベーション・デッキ

2009年11月19日 木曜日

107階の展望台からの360度の広々とした眺めは、忘れる事が出来ません。そして、ツインタワーのもう一方の107階での豪華なディナーも、もう2度とは味わえないんですね。悪夢の様なあの日から、既に8年の月日が流れ、あと2年もすれば世界一高いメモリアル・タワーがこのワールド・トレード・センター跡地にお目見えする事でしょう。

1931年、世界不況の真っ只中に建てられた、高さも建築コストも建造期間も共に世界一と言われたエンパイア・ステイト・ビルディングは、今もマンハッタン一高い建物として、ニューヨークのシンボルです。完成後、テナントが集まらず、「エンプティ・ステイト・ビル」とあだ名された事もあったそうですが、実は日本バブルの絶頂期、やはりこのビルのテナントである日本の会社が、我も我もとワールド・トレード・センターへ移転し、その時不況だったアメリカでは、各新築ビルも家賃を下げた為、多くの会社が他へ移転し、本当に身売りをしなければいけない程、「エンプティ」になった事がありました。

毎日6時から12時まで、ライトアップされるエンパイアは、やはりニューヨーカーの誇りです。普段は白一色ですが、記念日や季節毎に色合いを変えます。秋は、ミドリとオレンジ、クリスマス・シーズンともなると緑と赤。祭日には言わずと知れた赤・青・白の国旗の色です。今迄で一番記憶に残っているのが、メッツがワールドシリーズに優勝した時の青とオレンジのメッツカラー、今年はピンストライプにライトアップされたのでしょうか?それとダイアナ妃が亡くなられた際に、彼女の大好きだった薄いピンクでライトアップされた事です。

2年前に、10数年閉鎖されていたもう一つの展望台が、装いも新たにオープンしました。ジョン・D・ロックフェラーが自己資金によって夢の街を実現させた、ロックフェラー・センター内に建つGEビルです。この65階にはレインボールームと呼ばれる有名なレストランがあります。カジュアルな服装、スニーカーでの入店は拒否されると言う高級レストランです。

邦題で「めぐり会い」と言う映画で、このレストランでプロポーズされていたメグ・ライアンが、ハートにライトアップされたエンパイアを見て、駆けつけると言うあのシーンをご記憶の方も多いのではないでしょうか。実際には、ハート型のライトアップはありませんけど(笑)

このビルの70階に、3層に分かれた展望台がオープンしたのです。50丁目に面した正面玄関を入ると、このビルをかたどったクリスタル製のシャンデリアが煌いています。面白いのはエレベーターです。天井が無く、上を見上げるとアメリカの様々なジャンルで活躍した人が映し出されています。イチローや松井の顔も映し出されると良いですね。

この展望台は、様々な仕掛けがあり、天気の良い日には外で、寒かったり、お天気の悪い日には、全面ガラスの部屋からマンハッタンが一望できます。更に、エンパイアのライトアップが、真正面に見えると言うおまけ付ですから、是非6時以降に上って見られる事をお勧めします。

クイーンズ

2009年11月18日 水曜日

マンハッタンをイースト・リバーで挟んだ東側に、ニューヨーク市5区の中で最大の面積を誇るクイーンズがあります。マンハッタンのベッドタウンとして昔から多くの人達が居住しているのです。

JFKやLGA(国内線発着のラガーディア)空港も、この地区に有ります。1970年までは、フラッシングと言うところに、多くの日本人が住んでいました。又ここには、メッツのホームグラウンドであるシェイ・スタジアムや、USオープンが行われるテニス競技場もあります。処が、段々と韓国人が多く住むようになり、今では中国人と韓国人が殆どで、東のチャイナタウンと言う感じです。

1980年に入ると、日本人はそこからもっとマンハッタンよりのフォーレストヒルズと言う、ユダヤ人が多く暮らす、高級住宅街へと移ってきました。私も一時そこに住んでいましたが、家の隣にあるテニスコートで、18歳のアンドレ・アガシー選手が初優勝を飾った事が思い出されます。

バブル期の日本人駐在員の方々は、そこからお隣のニュージャージー州や、郊外のウエストチェスターなどに移って行かれ、マンハッタン在住は、単身赴任とか若者、単身や夫婦だけの永住の方が多くなりました。

マンハッタン59丁目からクイーンズ・ボロ・ブリッジを渡ると、そこがクイーンズです。この橋は、59丁目の橋と呼ばれ、サイモンとガーファンクルの曲のタイトルにもなっていますよ。

昔、万博が行われた跡地が、フラッシング・メドー・コロナパークになり、この中に植物園などもあり、人々の憩いの場所になっています。

忘れてはいけないのが、アストリアには昔からギリシャ人が多く住む地区があり、魚介類で有名なレストランも点在します。焼き蟹やタコブツのソテーなど絶品ですよ。

ブルックリン

2009年11月16日 月曜日

マンハッタンに隣接するブルックリンは、1898年にニューヨーク市に編入されるまでは、一つの独立した市でした。オランダ人が入植して以来、独自の文化を持ち歴史を刻んできた街だったのです。

しかし、一時期ちょっと危ない匂いが濃くなって、荒れた模様を見せていた地区もありますが、この頃は、アメリカのバブルに伴って、街は整備され、大きなショッピングモールや近代的なビル、高級なコンドなどが建ち並び、以前の豊かな並木道に沿って建っているブラウン・コートのアパートとも調和して、マンハッタンの便利なベッドタウンとして機能しています。

ブルックリンと言えば、ブルックリン橋。19世紀に出来た世界最大級の吊り橋です。縦横に張り巡らされたスチール・ロープで出来たこの橋を、ニューヨーカーは親しみをこめて【スチール・ハープ】と言うニックネームで呼びます。

2層に分かれたこの橋は、下が自動車道(とは言っても、ミニバス以上の重車両は通行不可です)、上は歩道になっているのです。大きな木材が横に隙間を開けながら渡してあるこの橋、暖かくて風のない日には是非渡って欲しいものです。

以前、ブルックリン橋から初日の出を見ると言う企画をしました所、運悪く私が担当になってしまいました。(涙)極寒の中、シャンペンのボトルと(冷たかった)グラスを用意して、お客様と橋の中ほどで日の出を待っていました。橋の隙間から風がビュービューと吹き上がり、本当に寒い元旦を迎えました。勿論、初日の出に乾杯して、喜んで下さったお客様の顔を思い出すと、寒さも忘れますけど・・・

又、エクスプロムナードは、イースト・リバーに面して作られている細長い散歩道で、ここからのマンハッタンの眺めは最高です。絶好の撮影ポイントなのです。

このすぐ側にかの有名な「リバー・カフェ」があります。輝けるマンハッタンの夜景を見ながらのディナーは、格別。ただ、予約を取るのが難しいのと、特に7:00、8:00台の予約は、予約開始時期(2ヶ月前)直前でないと、取れないんですよ。それから、8名以上の団体客は予約できません。

こちらは、コース料理(2種類)のみ、お味の方はまあまあと言うところでしょうか。マンハッタンに背を向けて座る人の為に、壁に細長く鏡が巡らせてあり、鏡を通して夜景をお楽しみ下さいと言う所は、何故か笑えますね。

個人としては、マンハッタンに一番近いところにあるバーで、夜景を見ながらグラスを傾けるのが、お洒落な気がするのですが・・・・

ブルックリンには、美術館、植物園もあり、日中はそこで楽しめます。私の趣味である釣りも、パーティーボートが出るハーバーが、30分も走ればあるし、嘗ては上流社会のお洒落な交流の場であった、コニーアイランドも、今では小規模ながら、楽しいアミューズメント・パークに生まれ変わり、小さな水族館、海水浴、浜辺に沿った遊歩道など、しっかり遊べる街でもあるのです。

思い出のサンフランシスコ

2009年11月12日 木曜日

と言っても、歌ではないですよ。(笑) かつて私が暮らした、故郷の博多に似た小さくて綺麗な街の思い出です。

最初に訪れた1977年。建国200年祭が終わったばかりの街並みには、様々にペイントされた消火栓が目を引きました。ワインで有名なナパに住む友人を訪ねて、たった一人でグレイハウンドに乗った事は、忘れられません。帰りのバスは、乗客が私一人と言う恐怖の状況で、ゴールデンゲイト・ブリッジを渡る頃には雨が降り出すという最悪さ・・・

「ホテルは何処?」と、ドライバーに聞かれた時は、飛び上がりそうに驚きました。今日は雨だし、君一人だからホテルの前まで送ってあげるよと、超大型チャーターバスは、ホテルの前に横付けになったのです。嬉しかったですね、アメリカ人のポスピタリティを、改めて感じました。

1981年からの2年間は、サンフランシスコのど真ん中に住んでいました。1日で四季があるこの街は、夜の8時から翌朝の8時まで、真夏でもヒーターが入るのです。あの頃は、超有名高級ホテルでも、エアコンの無い所が多かったんですよ。

5時を過ぎると肌寒くなってくる街中を、毛皮のコートを着た品の良い双子の老婆が毎日散歩するのを見るのも、楽しみの一つでした。

有名なユニオン・スクエアも、あの当時は暗くなると危ない場所だったし、地下の駐車場は、怖くて行けない場所のひとつでした。今では、周りに高級ブティックが集中して、まるでニューヨークの5番街かSOHOみたいですね。そう言えば、その当時はメイシーズは高級デパートだったんですが、ニューヨークに移って、庶民的というかむしろ低価格のデパートだと言う事に、驚いてしまいました。処変れば品変るって、この事ですよね。

ブッシュ、パインと続くストリートを、密かに松竹梅通りなどと呼んでは、ほくそ笑んでましたよ。ブッシュから始まるチャイナタウンにも良く行ったものです。半チャンラーメンと言う、チャーハンとラーメンがミニサイズで出て来るランチは、1.99ドルチップを入れても2.25ドルには、お世話になったものです。

ニューヨークに移った時に、物価の高さに驚きました。東京と博多の差でしょうか?東京に住んだ事のない私としては、驚きの連続でしたね。

サンフランシスコと言えば、ゴールデンゲイト・ブリッジとパーク、フィシャーマンズ・ワーフが有名ですが、もしお時間があればサルサリートにも、足を延ばして頂きたいですね。勿論、ゴールデンゲイトブリッジを渡って行けますが、ダウンタウンのフェリーターミナルから橋を眺めながら湾を横切るのも素敵ですよ。

1960年代から風景の美しさと独特の光の柔らかさに見せられたアーティスト達が移り住むようになって、アートギャラリーやクラフトの店が沢山あります。近年は、其れに加えて、ちょっと変ったと言いますかオリジナリティに溢れたブティックも多く点在していますよ。私は、グラスの小物に魅せられました。

もう10年も訪れていないこの街ですが、機会があれば是非もう一度ゆっくり滞在して見たいですね。自分が住んでいた時には見えなかった何かが見えてくるでしょうし、10年間で変ったところも一杯有るでしょうから・・・

サウスストリート・シーポート

2009年11月11日 水曜日

マンハッタンをずっと南下すると、ブルックリン橋の南にフルトン港が広がっている。19世紀には海運業界の中心地として栄えたところです。ウォーターフロントの開発が進められ、今ではニューヨークの観光スポットとして人気を集めています。

魚介類専門のレストランを初め、様々なレストラン、ブティックなどが軒を連ねています。かつての建築を再現し、レンガ作りの建物や石畳に歩道など、イギリスの街並みを思わせるシックな11ブロックにも及ぶこの町は、観光客で賑わいを見せています。

フィッシャーマンズ・ワーフを参考にして建造されたピア17などは、かつてサンフランシスコに暮らしていた私にとっては、なにやら懐かしい匂いがします。マンハッタンに掛かる数多くの橋の中でも、最も美しいと思うブルックリン橋を眺めながら、ロマンティックなディナーなど如何でしょう。

昨年までは、有名なフルトンマーケットがあったのですが、今はスタテン島に移転し、又新しいレストランなどが出来ているそうです。フルトンマーケットは、魚介類のレストランには欠かせない、日本で言えば、築地みたいな市場でした。今は、日本から空輸で新鮮な魚を仕入れているお鮨屋さんも、昔は皆、ここで仕入れたものでした。

しかし、昔は刺身など食べる人達も殆どいなかったマンハッタンでは、中々希望の魚を仕入れる事が出来ず、シェフ達は、自分で釣りに出かけたそうです。

ニューヨークは1年中釣りが出来、かなりの種類の魚に巡り会える事ができます。そう言えば以前、日本から釣竿を送ってもらった時、運送会社から届いた旨の連絡があり、その時に「お宅は、レストランですか?」と聞かれ、意味が分からず面食らった事を思い出しました。(笑)

そうそう、もう一つ素敵なお勧めがあります。もし、クリスマス・シーズンにニューヨークをお訪ねになる方、是非ここに足を運んで下さい。マンハッタン中に素敵なクリスマスツリーは沢山ありますが、ここには他にはないツリーがあるのです。

広場中央に設置されたツリー型の足場には、なんとコーラス隊が乗って、人間ツリーが出来上がるのです。期間中、美しいクリスマスキャロルを聞かせてくれるこのツリー、感動ものですよ。

ここからちょっと南へ足を延ばせば、自由の女神行きのフェリーで有名な、バッテリーパークがあります。又、北の方へ足を向ければチャイナタウン。マンハッタンの南は、見所満載です。